ときわ会HOME > すまいりすと
「輝き!すまいりすと」に登場できる日を、すごく楽しみにしていました(笑)。まずは子供時代のお話から…。小さい頃からスポーツが大好きです。小学2年で剣道を始めて、中学でもずっと剣道続きでした。礼節を重んじる伝統の武道、でも本当は緊張しやすい性格で、本番に弱い面がありましたね。
高校時代には、個人競技の剣道とは違ってチームプレイが主体のバスケットに転進。地元のクラブチームに入って、大人のメンバーと一緒に練習を続けました。バスケットには、選手それぞれに得意なポジションがあって、身長180cmの自分は、ゴールに近い位置から得点を狙う役割を担いました。
丸刈りが嫌で、理髪店を経営していた祖母に頼んで角刈りにしてもらったりするなど、色々な武勇伝があった自分ですが、高校3年生の時、先生から薦められて生徒会長を務めることになりました。その頃はまだ学校に古い制限が残っていて、華美を禁じるという名目のもと、例えば冬のコートひとつにしても、黒・紺・茶といった地味な色のダッフルコートの着用が校則として定められていました。
そんな没個性の制約を変えようと、自ら先頭に立って全校の生徒総会で提案。体育館でのファッションショーを企画したのです。ステージがわりのブルーシートを床に敷き、自分の好きな音楽をBGMに、校内の女子生徒に頼んでベージュとグレー、規則とは色や形の違うコートを着て歩いてもらいました。校長先生や生徒指導の先生にも出席いただいたファッションショーは見事に成功、校則は翌年から改められました。やんちゃながらも、改革を目指す気質がその頃からあったのかも知れませんね。
大学進学に際して先生から推薦入学をすすめられた国立大学へは、書類と論文ふたつの審査を通過、最終面接にまで残ったのですが、60人中59番目となった当日の受験順序、自分の順番がくるまでの4時間半を、ウォークマンを聞きながらガムを噛んで待ち続けたのが災いしたのか、見事に不合格! 埼玉県飯能市にある駿河台大学法学部へとすすみました。
初めて地元いわきを離れて過ごす首都圏の大学生活では、一升瓶を抱えて深夜にやってくるユニークな先輩たちに囲まれて、まさに社会勉強 (笑) の4年間が待っていました。朝寝坊のあと起きだしてから、バスケットをするか、サークルに顔を出すか、学生食堂にお昼ごはんを食べに行こうか…。授業なんか休んでも大丈夫だよという先輩からのアドヴァイス、遊びに連れ出されてばかりいました。
でもそうした日々を経て、先輩後輩という縦のつながりや、自分よりも年下の人間への思いやりといったことの大切さを教えられたような気がします。学生時代を共にした友人たちとは、毎年一度集まっての旅行など、かけがえのないつきあいが今も続いています。
首都圏で過ごした4年間の体験。広く全国から集まっている学生や海外出身の若者たち、その豊かな価値観との出会いを通じて、「自分はもっと変われる」、そうした熱い想いが次第に強くなっていったのです。みんなと同じ普通の就職活動をするよりも、さらに幅の広い世界を目指して、卒業後には日本を出てみたい、そう感じるようになりました。
青年海外協力隊(JICA)への参加も考えたのですが、社会での実務経験がまだない自分のキャリアに照らして、ワーキングホリデーという制度を利用してオーストラリアに渡ることを決意。渡航に必要な資金を確保するため、大学卒業と同時に、様々なアルバイトをスタート、9ヶ月で目標額の約100万円を貯めました。
そしてミレニアムの2000年12月。まっさらのパスポート、生まれて初体験の飛行機、ソウル経由の格安チケット…。空港に見送りに来てくれたみんなから「絶対無理だ」と云われながらの出発でした。不慣れな出国手続きやソウルの空港でのトランスファー、現地での通関など、四苦八苦のトラブル続きで、季節が日本とは逆となるサマー・クリスマスのオーストラリアに、遂に到着したのです。
現地ではファームステイといって農場での生活をすることに決めていました。日本人や日本語からできるだけ離れた環境に身を置きたかったのです。祖父が以前農業高校の校長をしていたこともあり、畑仕事を小さい頃から手伝っていたことが意識のなかにあったのかも知れません。
グレートバリアリーフで有名な北東の都市ケアンズから、月水金の3日間だけ運行されるバスに揺られて6時間、レイクランドという小さな田舎町が、自分にとって海外生活の舞台となりました。
近隣住民のほとんどが顔見知り、逃げたくても無理(バスがない!)、といった村のバナナ農園。2段ベッドと小さな冷蔵庫、そして、机だけが置かれた6畳ほどの小さなプレハブ部屋。広い野原にぽつんとあるトイレとシャワーはもちろん共同です。到着した初日、トイレに行ってフタを開けてみると、グリーンフロッグと呼ばれる巨大なカエルが便器の中に…。どうしたものかと迷いましたが、"カエルの面に小便" は縁起が良くないと思い、意を決して水を流すことに。グルグルと廻りながら落ちていった様子は今も忘れません。
バナナ農園で奴隷労働者さながらの暮らしがスタートしました。
朝一番、陽が昇るのと同時刻、6:30頃に迎えが来ます。起きぬけにかき込むコーンフレークと牛乳が朝食。そしてワニがいる川を越えて農園へ。お昼に食べるものといえば、お弁当がわりに持って行く食パンとピーナッツバターだけ。安い賃金と過酷な作業の日々でしたが、オーストラリア全土を一周する「ラウンド旅行」という夢の実現のために、お金を貯めたかったのです。
炎天下の種まきや雑草とり、リーフカットという呼ばれる葉っぱ刈り作業。ひたすら農園でバナナ栽培の仕事が続きます。なかでも一番キツいのが収穫作業。カッターという役割の相棒が切り落とすひとふさ40kgもあるバナナの実を、直接肩にドスンと受けとめて、巨大なトラクターまで背負って運ぶのです。イギリス人やオランダ人、自分と同様に働く同僚たちのなかには、あまりのタフな作業の連続に、遂にはギブアップして帰国する仲間も。自分は現地のオーストラリア人と競い合って、左右それぞれの肩に、ドスンっ。「もう一丁来い!」と、またひとつドスンっ。ほとんどロクに食べないままで、毎日そうした作業の連続。本当に皮と筋肉しかない状態にまで痩せました。
バナナ農園で得た賃金を一生懸命に貯め続けて、遂に自分にとっての夢である「ラウンド」旅行が、実現を迎えました。
美しい海と緑、降り注ぐ太陽、広大なオーストラリアをぐるっと一周する大旅行です。ケアンズからブリスベン、シドニー、メルボルン、アデレード、パースとまわり、ダーウィン、ウルル、そしてブレスベン。グレーハウンドの夜行バスで28時間、電車で30数時間など、とんでもない長時間の移動を続けながらのチャレンジ旅行でした。
一番行きたかった街、メルボルン。古い町並みや教会など、イギリス植民地時代の空気が今も色濃く残っています。ビジネスが中心のシドニーとは違い、ファッションやヨーロッパの伝統発信地といった雰囲気に満ちた街です。そして体長30cmのリトルペンギンたちの愛らしい歓迎が嬉しかったですね。
そしてメルボルンからアデレードへ。きれいに整備されたこの街では、ワイナリーや美術館巡りを楽しみました。
グリーンに輝くインド洋と夕陽の美しさとの出会い、パース。その景色は今も鮮やかな思い出として自分の記憶に刻まれています。ダーウィンではカンガルーの煮込みやワニの串焼きといった大自然を体験しました。そして世界遺産ウルル・カタジュタ国立公園では、エアーズロックと呼ばれる世界最大の単一の岩石。朝夕それぞれ、陽の当たり方で色が変わって見えるんです。
日本からはるか離れた海外の地で実現した旅。そのすべての場面が生涯忘れることない、自分にとって青春時代のハイライトとなりました。
(*)来月は<Part : 2> 立志編をご紹介します。どうぞお楽しみに!