ときわ会HOME > すまいりすと
まだ小学校低学年だった頃、病気をわずらった父親が入院している病床の脇で、点滴液の量をじっと見つめて、なくなりそうになるタイミングを見計らい、ブザーで看護師さんに知らせる日々。呼んでから実際に来てくれるまでにかかる時間がまちまちなため、「まだ早すぎるわよ」とか「遅いじゃない」など、看護婦さんの言葉にドキドキしていました。
あるとき、針から液が漏れているのを見つけ、どうすればいいのかと不安になって看護婦さんを呼ぶと、本当に心ない言葉が返ってきました。今でも涙が出てくるほどに悲しい返事でした。
今とは違って医療技術の水準が高くなかった時代のこと、その翌日また点滴液がこぼれていて、前日とは別の看護婦さんに相談すると、今度は本当に親身になって優しく対応してくださったのです。とても表情の美しい看護婦さんで、白衣の天使とはまさにこのひとのことだと感じました。
自分もこのひとのようになりたい、…そう心に誓いました。
看護師になって就職した福島労災病院、当初は外科での勤務でした。その隣に泌尿器科があって、労災病院の看護学校の講師を務めておられる新しい先生が着任なさるというので、看護学生をはじめみんな興味津々、賑やかな騒ぎになっていました。
どんな方なのだろうと覗きに行ってみると、そこにはすてきな新任の先生の姿が。若き常盤先生との出会いでした。ほどなく私の配属が外科から透析室となり、約2年間、常盤先生のもとで仕事をさせていただきました。
やがて先生がご自身のいわき泌尿器科を開院なさることとなり、常盤先生のもとで働くことを決めていた主任看護師から、「あなたも私と一緒に、いわき泌尿器科でお仕事をさせていただいたら?」とすすめられたのですが、まだそうした考えはありませんでした。
冗談半分で「常盤先生、どんな看護師を採用なさるんですか」とお尋ねしてみると、「オレはリンゴっ子(まだ頬っぺたが赤いほど若い娘)しか雇わないぞ!」と笑っておられました。
開院を3ヶ月後に控えた前年の暮れ、いわき泌尿器科への入職を予定していたその主任看護師が体調を崩して入院という事態に…。
そしていよいよ開院まであと半月あまりというぎりぎりのタイミングが迫った3月初め、「もしも私でお役に立てるのでしたら…」、そう常盤先生に申しあげました。
労災病院を退職しての進路については、「きっと大変だよ」と家族から言われましたし、後任看護師への引き継ぎを準備する期間がほとんどとれない状況でしたが、職場の同僚たちからは「頑張ってね、みんな応援するわよ!」と熱く励まされました。
透析という分野での経験はわずか2年。私自身まだまだ未熟な身で、一緒に働くことになる他の看護師たちへの指導や教育などが叶うとは思えませんでしたが、「常盤先生のもとでお仕事をさせていただく」。…覚悟を固めた春でした。
いわき泌尿器科がスタートしてまだ日も浅い頃、もともと労災病院で診療を受けておられた患者さんのおひとりが、「どうしても常盤先生に手術をしてほしい」と強く希望なさったのです。「常盤先生でなければ手術を受けない」、頑として…。膀胱癌の患者さんで、膀胱全摘術に加え腸を切って尿管をつなぐ回腸導管の作成が必要でした。
開院からわずか1ヶ月半、5月5日を手術の実施日とすることが決まり、院内スタッフの全員が一致協力、総力を挙げて事前の準備をすすめ、いわき泌尿器科で1例目となる手術に臨みました。そして当日、初めての手術は成功、常盤先生の手術手技は見事なものでした。術後の経過も順調に推移、患者さんはお元気に退院なさいました。
その当時は、外来から透析、往診、手術、入院患者さんの回診と、本当に昼夜の区別なく、常盤先生がすべてをおひとりでこなしておられました。「いったい先生はいつ寝ておられるのだろう」と不思議だったほどです。そうしたお姿をすぐ間近で見て働いく私たちには、きついとかつらいとかいった感覚はまったくありませんでした。ときわ会ならではの、固い結束です。
いわき泌尿器科の開院から4年強を経た61年7月、ときわ会にとって第1号となるサテライトの医療施設、泉中央クリニックが誕生しました。
朝のラッシュ時間帯に混雑しがちな国道6号線。泉や勿来(なこそ)などのお住まいからいわき泌尿器科での人工透析をお受けになるために週3回通院なさっておられる患者さんのご負担を軽減させていただきたいという想いからでした。
"地域で一番の医療サービス"。それはときわ会の創立以来、常盤先生が常々おっしゃってきていることです。
いわき泌尿器科での勤務から異動、看護師長として泉中央クリニックに着任しました。
泉中央クリニックの特徴は、とにかく仕事を辞める看護師がいないということ。ベテランのメンバーたちに恵まれており、看護のレベルがとても高いのです。患者さんに対する笑顔やご挨拶はもちろんのこと、患者さんをお待たせすることのないスムーズな人工透析を心がけています。
そしてもうひとつ、様々な情報伝達が徹底しているということ。職務上必要なコミュニケーションがきちんと届いて、それが受け止められたというレスポンスがちゃんと返ってくる。それは非常に大切なことですし、指示をする立場としての私自身、とても助けられていると感じています。
看護師をはじめ、医療サービスを提供する側の人間が患者さんに対して口にする言葉の大切さ、そして難しさ。
例えば「ちょっと待ってね」という言葉を決して患者さんに言わないようにしています。私たちにとっての1分が、お待ちになる患者さんにとってはとても長い時間に感じられるものです。
たとえそれが、本人にしてみれば何気なく言ったつもりであっても、患者さんにとってはそのひとことでつらい想いをなさるといったケースもあるわけです。実際そうしたご相談を患者さんご本人から受けて、看護師にアドヴァイスをしたこともあります。
患者さんのお心というのはとてもデリケートなもの。逆にいえば私たち看護師としても、朝お目にかかったときの「おはようございます」のご挨拶ひとことで、患者さんのその日の気持ちのコンディションをつかむといったことも必要です。
さらにまた、患者さんご自身とのコミュニケーションとともに大切なのは、患者さんのご家族とのかかわりではないでしょうか。積極的できめ細やかなコミュニケーションを通じて結ばれる、患者さんそしてご家族との信頼。
まさしく『笑顔とまごころ、信頼の絆』。ときわ会ならではの看護のあり方を大切にしていきたいですね。
ご人徳というのでしょうね、常盤先生はお人との絆に恵まれてこられたと思います。
ずっと以前のことですが、たまたま本を読んでおられて、常盤先生と同窓の先生の記事をご覧になったそうです。その先生にご連絡をおとりになったところ、川口先生(現:いわき泌尿器科院長)や水野先生(現:いわき泌尿器科放射線科顧問)とのつながりが生まれ、さらには様々な人脈などを通じて、現在ときわ会で医療に携わっておられるドクター陣との出会いに結びついているのです。
常盤先生ならではの地道なご努力、情熱や誠意、人を大切になさるまごころ。そうした要素が積み重なって、多くの方々との絆が育まれ、さらにはときわ会が発展する環境が作り上げられてきた。そしてそうした過程のなかで、常盤先生という存在と同時に、常盤理事長というお立場が生まれてきたのではないでしょうか。
常盤先生の人生には3つの誕生日がある、私はそんな気がしています。ひとつ目はご自身がお生まれになったとき。ふたつ目は57年にいわき泌尿器科を開院なさったとき。そして3つ目は昨年10月にときわ会グループが発足したとき。
「夢と目標」。その両方が重なることもあれば、スケールが異なる場合もある。常盤先生はそのどちらにも向かって階段を登ってこられたと思いますし、これからも登り続けて行かれるのだと信じています。それは決して野望といったようなものではなく、果てしないバイタリティであり、地域に貢献したいというヴィジョンであり、そしてきっとロマンなのでしょうね。
いわき泌尿器科の開院当時から常盤先生が私たちに心を砕いてくださってきたことのひとつに、職員の旅行があります。私たちをよく旅行に連れていってくださいました。
今からもう20年ほど前のある年、家庭の理由で海外への旅行に参加できなかった私は、仙台への旅行に行かせていただいたのです。
ときわ会がお世話になっているある方が仙台の街を案内してくださったのですが、その夜連れて行っていただいたのが…。なんと、おかまバー!姿は男性なのに、心は女性。話に聞いたことはありましたが、実際に目にして、私はもう、びっくり!
それまでも、それからも、もちろん一生でただ一度ですが、今も忘れることのできない貴重な体験となりました(笑)。