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すまいりすとすまいりすと

今月の「輝き!すまいりすと」Vol.43 2010年5月
太田登志子(おおたとしこ)いわき泌尿器科病院 看護師 病棟担当 〜 この病院に来て良かった、この看護師さんで良かった。そう感じていただける看護でありたいですね 〜

変り種(?)のキャリア

いわき出身。地元の高校を卒業して、いわきの洋菓子会社に就職。その会社で3年間勤めた後、東京にあるお菓子の専門学校に入学。1年間勉強して再びいわきへ。今度は個人経営の小さなケーキ屋さんでパティシエとして3年間働きました。

医療分野に入るまでの7年間、お菓子の世界を歩んだ後、いわきの准看護学校で2年、ついで福島の看護学校で2年学んで、看護師の資格を取得。

珍しいキャリアですよね(笑)。

父親譲りのちびっこシェフ

もともと私、子供の頃から料理が大好きだったんです。実家が精肉店を営んでいて、コロッケや唐揚げなど、父親手作りのお惣菜をお店で販売するんです。家庭での食事も、もっぱら父親が作ってくれていました。

そんな父を見よう見まねで手伝っているうち、いつの間にか料理をするのが得意に。それこそはじめのうちは卵料理くらいだったと思うのですが、気がつくと自分でクッキーを作れるようになっていましたね。

あ、そうそう。パン工場を見学する機会があったんです、小学3年生の頃だったと思います。なるほど、パンってこうやってできるんだ…、と。それがきっかけで、パンも焼き上げることができるようになりました。

ほとんど独学です、料理の本を読んだりして。それと「料理天国」というテレビ番組を、いつも楽しみにして観ていました。

料理の道への歩みは、私のなかでごく自然な流れだったのだと思います。

脱!チェーン店

高校を卒業して勤めた会社は市内にいくつも洋菓子店を展開しているチェーン店。そこでケーキの製造を担当しました。とにかく忙しかったですね。朝6時に出勤、帰りは深夜12時頃といった具合です。

ベルトコンベアというほどではないのですが、ケーキを大量生産するシステムのなかで、ある一部分だけに携わるという仕事のあり方が、次第に物足りなく感じられるようになって行きました。商品に使う素材をもっと厳選して、ひとつひとつ心を込めたケーキを作りたいと考えたのです。

3年間の経験を通じて学んだことを基本に、もう一度きちんと勉強し直すため、東京の吉祥寺にある製菓専門学校に入学。ほど近くに住む叔父の家で、いわば居候させてもらって通学しました。(本当は東京でのひとり暮らしを夢みていたんですけど…。)

食べある記

東京での勉強、あっという間の1年でした。ともに学ぶみんなと一緒に取り組んだ、お菓子やパン作り。私の場合、それまですでに実務の経験があったので、むしろ化学をはじめとして、理論的な面がプラスになりました。なぜ小麦粉は膨らむのか、といったようにです。

それとあと、行ってみたいと思っていた東京都内のお店をたくさん見て回りました。世田谷のオーボンヴュータンや、青山のキルフェボン、八王子にあるア・ポアンといったお店が今も印象に残っていますね。

ただマスコミで騒がれている有名なお店でも、実際に食べてみると「なんだ、こんなものか」といった場合が結構あることも知りました。

欧州美食ツアー

その専門学校で「美味しいものだけを食べ歩く2週間のヨーロッパツアー」という企画があって、私も参加しました。

フランス、ドイツ、スイス…。なかでもパリで宿泊したホテルの近くにあったパン屋さん、そこのフランスパンの美味しかったこと!生涯決して忘れることができないほどの感激でした。やはり現地、さすが本場なのですね♪

悩みぬいた末の決心

専門学校を卒業して勤めた、いわきのケーキ店。もとは先代が創業なさった和菓子店だったのですが、息子さんの代になって洋菓子を始められたのです。ご主人が自分でケーキを作って奥様と一緒に販売しておられる、アットホームな店です。

以前にイタリアンのレストランでデザートを担当しておられたご主人。経験もセンスも豊かで、本当に美味しいのです。見た目も素敵なお菓子ばかり。今ではいわきにいろんなケーキ屋さんができましたけど、当時は市内でも群を抜いた存在のお店だったと思います。

パティシエ・シェフ兼オーナーであるご主人と一緒に、毎日のケーキ作り。3年間の仕事を通じて、お菓子を作る喜びと同時に、自分でお店を経営するということの難しさを学びました。

まずは25歳まで好きな道を歩むことができた私の人生。30歳で自分のお店を持つという目標。実家の精肉店で働く父の背中が、私自身でお店を持つという想いのなかにあったのかも知れません。

初めて知った経営面での大変さを、私自身が生涯にわたって乗り越えて行くことができるだろうか。内なる葛藤が続きました。

そんな時です、…ともに看護師である母や姉からのアドヴァイスに心が動いたのは。

本当に悩みぬいた末、これから先の自らの生き方について、心を固めることができました。

25歳での新入学

もともとずっと以前から、看護師になることを勧めてくれていた母。いくら云っても私がまったく耳を貸さないので、もうとっくにあきらめていたらしく、(今さら)25歳になってからの看護学校入学には反対だったようです。

でも、ときわ会のヘルパーとして働きつつ、奨学生として准看護学校に通わせていただきました。2年後、福島市内の看護学校に進学。卒業後、正看護師としていわき泌尿器科へ戻りました。

25歳までの人生で歩んだ、もの作り。25歳で決意した、医療の道。

違うといえば違う、似ているといえば似ている?などと自問自答しながらではありましたが、もともと人のとかかわりが好きだった私。看護師としての日々が、自分自身にとってごく自然にとけ込んで行きました。

宴会部長

正看護師の資格を得て、現在5年目です。今春開院した常磐病院に先輩看護師の方々が異動の後、ふと気がついてみると、先輩よりも後輩のほうが多くなりました。

これまで先輩に甘えていたんだなということに気がつくと同時に、所属する病棟部門のなかで、中堅のひとりとしての役割を担って行かなければならないと感じています。

私自らのキャラクターについて、自分ひとりでグングン引っ張るというよりは、後輩たちと一緒に力を合わせながらという面が強いと感じているので、そうしたチームワークを大切にしたいですね。みんなの笑いをとることのできる、"宴会部長役"とでもいうのでしょうか(笑)。

患者さんに対しても、私と接していただいたことで、たとえ一瞬でも病気のことを忘れて、和んだお気持ちになっていただくことができればと願っています。

周囲を思いやることのできる心のあり方。誰にでもつらいことや苦しいことがある。厳しさばかりではなく、相手の立場に立つことの大切さ。そんな想いがいつも自分のなかにあります。

シーツのシワひとつへの気配り、病室の整頓の行き届き、それらすべてが患者さんやご家族のみなさまへのまごころ、…ある先輩看護師から教えていただいたことです。

この病院に来て良かった、この看護師さんで良かった。そう感じていただける看護でありたいですね。

ハイブリッド看護師としての想い

ケーキひとつを作るにも、材料の組み合わせや仕上がりの見栄え、飾りつけのセンスなど、様々な要素によってまったく違ったものができあがるんですよ。

オリジナリティに溢れたお菓子を生み出すには、想像力といいますか、そうした感性を発揮することが必要です。パティシエという異分野でのキャリアを経て、看護の道に入った私。

おひとりおひとりの患者さんについてどういった看護のあり方が適切なのか、どういった指導内容が向いているのか。そうした個々の応用力やバリエーションに富んだ看護を実践して行くことができればと思います。

実は一番好きな食べ物

どんなジャンルのものでも、美味しく食べるんですけど…。

コロッケでしょうか。ん〜、でもやっぱり唐揚げかな♪

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